それでも紅茶作りを諦めなかった人達
【国産紅茶の終焉】
国の主導で始まった事業は、国の手によって終焉を迎えました。
全国の紅茶園は次々と抜根され、消費が伸び続けていた緑茶へと姿を変えていきました。
それでも、諦めない人たちがいました。
【日本の紅茶を絶やさない】
三重では”海外紅茶に手が届いた”と言われた茶園さんが、今や幻と言われるくらい栽培数の少ない品種『べにほまれ』をもって、そのやり方を常に発展させ、地元では知らない人のいないお店として定着しました。
【祖父の遺産を守りぬく】
大分では、妻の祖父が立ち上げた紅茶をその技術丸ごと継承するために今までの職をやめて紅茶作りを始め、常に新しい試みと更なる高品質の紅茶を作り続け、日本の紅茶を引っ張っています。
【国産紅茶を復活させる】
雪の降る島根県では、みんなが国産紅茶を忘れてしまった時期に、再び作り始め、『神話の国』の紅茶を作り続けています。
平成に再発見した人達による新しい光
【国産紅茶の父・多田元吉翁のお墓の前の石段が遊び場でした】
静岡では、幼き頃に駆け回った野山が、日本の紅茶のかけら達が残る山でした。
その人は、生産・更なる可能性への研究の傍ら、日本の紅茶復活のために技術指導も始めました。
【人と同じことはしたくないんだ】
熊本では、父から受け継いだ茶園を自分の信念に基づき無農薬化にこぎつけ、毎年成長を止めないお茶作りを行いました。
【イギリスで飲んだ紅茶が忘れられない】
奈良では、先祖代々続く茶園の跡取りが会社勤めをやめ帰農。「茶農家なのになぜ紅茶を作らないのか」という友人の言葉にも後押しされ、夫婦二人三脚で日夜本物の紅茶への到達へと研究に取り組んでいます。
復興をかけた新品種の登場
生産では諦めかけた国産紅茶でしたが、品種開発は諦めていませんでした。
輸出用の品種として栽培されていた『べにほまれ』と別のダージリン系の品種と掛け合わせて、日本の風土に適応した品種の開発に成功しました。
1995年登録をされ、名を『べにふうき』といいます。
インドからもちかえってきたアッサム系の品種べにほまれは、確かな紅茶品種ではありましたが、寒さに非常に弱い品種でした。
べにふうきは違いました。
栽培地域は、西日本全土に広げられる品種となりました。
この品種の栽培に最初に名乗りをあげたのは、静岡と鹿児島とそして大分でした。
そして、べにふうきを育てる茶園は続々と広がりを見せました。
消えゆく紅茶品種は、今や増えゆく品種になりました。
各地で芽吹き始めた『新しい紅茶』への息吹
【本当は娘が受けるはずだったの】
そういった女性は、ティーインストラクターの講習・試験が終わると住んでいた鹿児島に帰り、べにふうきと出会います。
『植えるのはあなたしかいないでしょう』
そう言われたこの紅茶は、2007年にイギリスの”The Great Taste Awards”で紅茶部門の金賞を受けるに至りました。
【みんながどう言おうとも、この紅茶では満足できない】
大分では当時若干20歳前後の若者が、大学時代の先輩に背中を押され、実家の茶園に帰って帰農。インドの有名茶園からの技術指導を受ける機会も得られ、全国的にも名だたる紅茶専門店やお茶好きからの評価を高め、今や急成長を見せている紅茶農家となりました。
一時は、生産量判定不能と言われた国産紅茶は、2013年5月時点で400茶園を超え、生産量も100t以上で200tまで行くのではないかと言われています。
ですが品質ではまだまだ終焉時点には届いていない状態です。
ただ着実に、海外の紅茶を知り、見据え、そしてそれを超える努力をしている茶園が増えている事も確かです。
『日本人が飲む国産紅茶』という歴史が、今まさに始まったのではないでしょうか。