戦後復興をさせたお茶:紅茶
戦争が終わり、敗戦国になった日本は、全ての輸出が止まりました。
日本全体が貧困に襲われ、深刻な食料不足に襲われることになります。
その時、アメリカは日本への援助物資として食料を供給するのですが、
同時にいくつかの商品の輸出が許可されました。
その中にお茶が含まれており、緑茶・紅茶を合わせて最大1万7千tものお茶が
世界に輸出されることになります。
お茶の主な産地であるアジア諸国が戦争の被害を受けており、いち早く農業が回復した日本は大量のお茶を輸出することができたのです。
世界の回復、試される国産紅茶
しかし、昭和33年くらいになると『日本のお茶は品質がよくない、値段が高い』との事で、だんだん世界の市場から締め出されていきます。
当時の農林省はこの事態を憂慮し、『紅茶振興会議』を発足させました。
ここで討議された結果、日本で1万町歩の紅茶の品種円を作るという結論をだします。
5000tの品種紅茶を生産しそれを輸出しようという計画でした。
補助金も入れて茶園の開発が活発に進んでいきます。
ですが、時遅しでインド、スリランカ、ケニアなどの大産地が生産量を伸ばして世界需要を満たしてきてしまいました。
海外の大増産、国際競争力の低下、そして1971年
海外で売れなくなった国産紅茶を国内に持ってきても、
紅茶を飲む文化が定着していないので、消費されません。
それに合わせて、外国の産地特にスリランカからは日本が紅茶を輸入するよう
強い交渉をかけてきていました。
苦肉の策として、海外の紅茶に一定の割合で国産紅茶を混ぜて売るという規制を作って需要を高めようとしましたが、紅茶の需要そのものが伸びなかった状態において、昭和39年にで打ち切り・一時停止になってしまいました。
その時既に鹿児島に品種茶園2500haができており、2000haのはつもみじと500haのべにほまれが取り残されることになります。
品質面でも三重県の茶園で『一流メーカーに追いついた』と評された
国産紅茶の品種紅茶が登場しました。
品質においても、これからという時期でありました。
国産紅茶がスタートして100年ほど経った昭和46年(1971年)に重大な決定がなされました。
GATT(関税および貿易に関する一般協定)の交渉において、
いくつかの品目に関して自由化をされました。
その中に、紅茶が含まれていたのです。
こうして、国産紅茶の歴史に終止符が打たれてしまい、全国の紅茶茶園は、続々と緑茶へと改植が行われ、日本から紅茶を作るという灯火が消えてしまったのです。
(出典:『国産紅茶を語る』茶学の会)