公的に残る国産紅茶発祥の地
公的記録では、日本の国産紅茶は大久保利通が欧米訪問のあと、『日本でも紅茶を作って売ろう』という発案から始まったとされています。
テレビなので国産紅茶が紹介される度にTwitterなどで
『国産紅茶発祥の地?』
『国産紅茶ってここだけ?』
などのツイートなどを見ますが、それと同じくして検索が活発に行われている現状を見まして、改めてコラムではありますが国産紅茶の発祥にまつわる流れを書きたいと思います。
中国式紅茶製造法を始めた地
欧米歴訪を終えた大久保は、日本でも紅茶を作るという計画から、当時の紅茶の輸出大国であった中国から技師を呼び、製造を試みました。
それが、一つは大分県の木浦(今の佐伯市)であり、もう一つが熊本県の山鹿でありました。
中国式で生産を試みましたが、上手く行かず、当時旧幕臣の多くが開拓していた静岡県のお茶畑を手がけていた人たちに白羽の矢が立ち、海外へと紅茶の視察勉強とへ派遣をすることに成りました。
国産紅茶の父、多田元吉が日本に帰ってから始まった地
その中で、旧幕臣多田元吉がインドなどから帰ってきて、高知県の安丸村(現香美市)を皮切りに、全国に紅茶伝習所を設立。
お茶処を中心に紅茶の生産を試みだしまし、4~5年の間に全国で600人を超える技術者が誕生しました。
明治政府よりも以前からの挑戦?
実はこの公的な試みよりも以前に紅茶作りを試みたのじゃないかという話もあります。
それは佐賀の政商松尾儀助と言う方を中心に試みられたとと思われ、この方が、当時の主人佐賀藩士の野中元右衛門に命ざれ、紅茶作りを試みたという資料があるそうです。
歴史には、私的なものと公的なものがある
いずれにせよ、国産紅茶は明治政府が推進して行った場合と、当時の商人が行った場合とあり、紅茶というものは『海外に向けた商品』としてつくろうとされていたというのは事実です。
あとの、松尾氏は九州中からお茶を集めアメリカに輸出した大浦慶とも関係があるとされ、松尾氏もウィーン万国博覧会には茶商として参加したなど、お茶との円は切れない物があります。
このように、国産紅茶の歴史は主に海外で売られるために作られたという経緯はありますが、今日のように国内で飲まれることを前提に全国で作られるのは初めての事になります。
毎年一万何千トンも輸入される海外の紅茶と同じように、国内産の紅茶も国内で広く一般的に飲まれる様になるよう、願ってやみません。