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華々しくスタートするも、生産は芳しくなく

各地で教育機関ができ、同じく紅茶会社が誕生し、一時期は数百トンクラスの生産まで至りましたが
基本海外輸出だけの生産にとどまり、品質面でも紅茶の大国インドに太刀打ちできませんでした。
次第に数は減り各地にわずかに作られるだけの状態になり、多くて100tぐらいが一気に集められスポットで輸出される程度になってました。
その時の輸出に尽力を尽くしたのが三井物産です。
西洋化が進んだ当時の日本といえども
国内では『紅茶を飲む』と言う事が、一般的ではありませんでした。

台湾が日本領に、大資本による拡大

一度は下火になりかけた国産紅茶ですが、
やはりもう一度輸出を再興したいという気運が起こってきます。
その時、日清戦争で割譲した台湾に目を付けました。
南方で緯度が低く、大正に入ったことから治安が安定してきて
山奥まで入っても大丈夫という状態になっていました。
三井農林の前身三井合名会社が主となり、台湾に紅茶園の建設・経営に乗り出します。
生産量は昭和10年代になると6000t位になりました。
外貨獲得のために、ほぼすべて輸出に回ることになります。

輸出最大期

第1次大戦後、日本の紅茶にチャンスが到来しています。
大戦後の不況期に、世界的な紅茶の消費量が落ち込み、
それに合わせて紅茶の大生産国が生産統制を行いました。
ただ、消費流が減ったといえども中級以下のお茶の需要はまだまだある状態でした。緑茶で言う『番茶』の紅茶を求めて、世界中の紅茶のブローカーは統制を行ってない国のお茶を買い集めました。
結果、日本での生産量台湾産のアッサム種の紅茶6000t、国内の在来品種での紅茶5000tのうち、昭和12年に最大6500tもの紅茶が輸出され、昭和8年から拡大し5年間に渡り世界に輸出されることになりました。

ただ、生産統制も延々と続くわけではなく、解除後は徐々に量を減らし、品質がほかの国のものに劣るということと、物価があがり取引価格が高騰してしまった為、国際市場から締め出される形になりました。
そして、第二次大戦が起こってしまい、全てのお茶の輸出は止まってしまうことになるのです。

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