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国策産業としての紅茶

紅茶に先立ち、日本では緑茶が海外に向けて輸出されていました。
海外に門戸が開かれた時に、長崎からアメリカに向けて1万斤(約6t)もの緑茶が九州全土から集められ船出をしました。
長崎の商人大浦 慶の逸話ですが、その後、九州を始め大産地静岡からも緑茶が海外に向けて輸出されていたことは、知ってる人しか知らない歴史です。

『緑茶の国』であった日本ですが、欧米視察から帰ってきた要人たちにより転機を迎えます。
内務卿の大久保利通は、欧米を回って『欧米はお茶を飲んでいるが、欧州は紅茶を飲んでおり米国も今は緑茶だが次第に紅茶になるだろう』とにらみ、紡績と同じように紅茶の生産輸出の促進をはかっていくことになりました。

紅茶をインド式に定める

明治維新後、主君徳川慶喜に従い駿河に赴き、拝領した現静岡市丸子にて茶の栽培を始めた旧幕臣がいました。

名を多田元吉と言います。

時同じくして明治新政府は、中国から茶師を雇い、製造実習・講演会を開きました。
場所は大分県の木浦(現佐伯市、旧宇目町)、熊本県の山鹿。
当時、『紅茶は山茶がいい』と言われ日本で多い平野でのお茶は紅茶に向いていないだろうと思われ、2箇所の山奥が選ばれました。
ここで作られたのは中国式の紅茶です。
ですが、香味の上で評判が良くなく、方法を模索していたところ、イギリス領のインド・アッサムから情報がもたらされ視察に行くことになりました。
その時技師として採用されたのが、丸子でお茶を作っていた多田元吉その人でした。

国産紅茶の父・多田元吉帰国後

多田元吉は、まずは中国で視察・調査を行い、半年かけてインドの茶の産地を周り、日本とインドとの茶生産の違いを目の当たりしてきました。
結果として、多田が持ち帰ってきた機械・茶園システム・そして茶の種などは日本のお茶の生産を劇的に変えるものでありました。
多田の帰国後、四国の高知県の安丸村(現香美市安丸)を皮切りに、東海・近畿・中国地方・九州各県で順次『紅茶伝習所』を作り製造の教育を行っていきました。
そして、4~5年の間に全国で600人を超える技術者が誕生しました。
こうして、日本の紅茶は夜明けを迎えたのです。

(出典:『国産紅茶を語る』茶学の会 『山背古道お茶探検隊・活動日誌|日本紅茶の歴史』)

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